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私が彼とともにいたのは、ありあまるほどに存在する、単調さ、少しばかりの思考で容易に見通しのつく長さにおいては窒息さえ生み出しかねない私の生涯の中で、わずか数千分の一にも満たない日数でしかなかった。
それでいて彼は、だれひとりとして犯すことのできない禁足の位置というものは、たしかにだれの胸の中にも存在するのだということを私に気付かせ、そして私の中に空室となって眠っていたそれを探り出し、そこに入り込んだのだった。
それは、私の中ではとうに蜘蛛の巣が張り巡らされ、埃に薄汚れた、小さな片隅だった。
持ち主であるはずの私ですらそのさびついた扉を彼はいとも易々と開いてみせ、そして生涯唯一の個室として、幻影だけを忍ばせた。
とてもずるいことだと、のちに私は幾度も罵ることとなる。
年月とともに薄れ、褪せて、散っていくだけの幻。
だのになぜ、私はすがるのか。 なぜ、必死になって彼を思い起こそうとするのか。3週間。
彼とはひと月にも満たない数日間しかともに過ごすことはなかったというのに。 説明のつかない不思議な異常さに、わがことながら惑わずにいられない。そんな私ではあったが、しかし彼と特別親しかったというわけでもなかった。
親同士が友人であったとかいうわけでもなく、それまでになんらかの場で彼の姿を目端に入れていたというわけでもない。私が彼を見たのはほかの者たちと同じく高校入学の日が初めてであり、その日を入れて数えての日数が3週間だったのだ。
そして同じクラス、続く席順だったというだけでは説明不足だろうか。 それでも、と言うのであれば、では、彼を述べればいずれの者であれ理解してもらえると思う。 彼は、名を
家系図をたどればかつてその身に公家の血でも入っていたのかと思わせる、雅な高貴さを振り撒いている名なのだが、翠(私は、その呼びにくさから彼をそう呼ばせてもらっていた)自身、名にし負うと言うべきか、我々と同じ歳の男としてはとても端正な、それでいて洗練された品位をそこはかとなく身にまとっていた。
常に平静を崩さない面。容姿端麗にして眉目秀麗である。が、そうして口にした途端その言葉の持つ要素すべてが色あせ、そしてそれはとうとう『翠にかなわないまでも』という言葉が上に付くようになってしまうほどだった。
そう、直接に翠を知る私たちがいなくなったあとも、この言葉は同校生徒の間で受け継がれてきている。 それほどに抜きんでて超越した美を持つ者だったのだ、翠という男は。まるで、孤高たる胸の理想像を恋いわずらうばかりの女たちにより代々蓄積されてきた願望が結集し、受肉した、そしてその中でも生粋の純血を持つ者だと冷やかし混じりにだれかが言っていたのを覚えている。
今は遠い、はるか昔の言葉なのに。
そしてより鮮明に、その冷やかし文句前にしてもその
実際、翠という男はどこか異国を思わせる雰囲気を持っていた。
決して相入れないものではないのだけれど、完全には触れ合わない。
それは絶対の確信だということを、私だけでなくほかの学生たち、教師すら、分かっているようだった。翠は決して馴れ合わない。
小・中・高と続く学生生活の中で得た、親しい友人たちと過ごすことに慣れた、典型的なまでの――退屈とさえ表わすことのできる――日々の中で、翠が異質だったのだ。
翠だけが。
翠の加わった輪で、そしてそれがたとえどんなに小さな輪であったとしても、翠は自分1人をその異質さで包み込む。
どこか肌のけば立つそぐわなさを感じていたのは、本当に私だけだったのだろうか。
翠はみごとなまでにおおい隠し、隠蔽し、気付く者を許さない。許さない。
そう、それはまるで拒絶のようにも感じ取れた。
それでいて気付かないことを愚鈍であると言うように、そのだれもに冷たい、拒絶にも似た侮蔑をちらつかせていた。
なぜなのかは今でもはっきりとつかめていない。
すべてがはるかかなたへと過ぎ去った今において、いまだ自らの思いすら把握できず、当惑気な私に、はたして翠のことまで理解ができようか?ただ。
翠とは、そういう男だったのだ。こんなこともあった。
翠と知り合った翌週の、月曜の朝。私とともに登校して来た翠の前を塞ぐようにして、突然1人の少女が現われた。
その着慣された制服といい、華やかなまでの服飾違反はどう見ても上級生で、表皮の造形の美しさよりも、その下に隠したふくよかな肉体で相手を魅惑しようとするタイプの女性だった。 少女(と、表わしていいものか……)は、堂々と翠に交際を申し込んだ。「あなたにふさわしいのは、私を置いてほかにいないでしょう。あなたは私の横にいるべきなのよ」
翠を前にしてひるみもせず、自信満々、命令口調で言い切った。
ここは高校の敷地とは言え、まだ校門をくぐってすぐの場だ。
だから私は、翠の影に隠れるような位置にいながらも、この少女の発した声が道の前を往来する人々の足すら止めさせるほどに高い、はっきりとした言葉だったことは、ひどいやり方だと思っていた。こうすれば男である翠は従わざるを得ない。
女に恥をかかせるような男ではないでしょう、と。そう確信しているような、計算づくの申し込みだ。 翠もまた私と同じ思いであったのか、その
だが、よくよく見れば、少女の唇はかすかに震えていた。
両脇でにぎりしめられたこぶしは震え、ポーズもどこかぎこちなく、いまだ直立不動で身じろぎひとつしない。虚勢を張っている。
そうと気付くと、途端に、それまで見えていたものが全く違うものに映った。
確信を持つ行為とはいえ、大勢の者たちの目前での行為に、まだ十代半ばの少女が緊張しないはずがない。ましてや相手は翠。
おそらくは少女がこれまで出会ったことのない、並外れた美しさ、艶麗なまでの洗練された美貌を持つ、翠なのだ。 そうならないほうがおかしい。そう思ったなら、緊張を気どられまいと懸命に強がる少女はとてもいじらしく、可愛いらしさをも感じられた。
この場限りでもいいではないか。彼女の求めに応じたあとで、2人だけになったとき、彼女の大胆不敵さと胆力を褒め、勇気を称賛し、そしてやんわりと釘を刺したのちにあらためて断りの返答をすればいい。私はそう思い、翠に耳打ちをしようとした。翠は、けれど私ではない。
私は翠ではないし、翠もまた、私ではないのだ。当時、僕の中には翠に対して相反する2つの感情が背中合わせで対峙していた。 ひととして、だれもが望むもの。 並外れた美しさも、知性も、分別も、品位も、何もかもを持っていた翠。 それゆえに無関心という傲慢さで彼を取り巻く人々の心を乱し、操った翠。 目に見えない王錫をその手ににぎって生まれてきたに違いないと分かる、あきらかに私たちとは違う、選ばれた存在。超越者。 だがそんな翠にもやはり苦悩というものはあるのか。 それだけ恵まれた存在でありながら不満を持つなど、いささか尊大すぎやしないかと思い、直後、そんなことを考える自分はなんて罪深い、卑屈な者なのだろうと思い、私は自らを嫌悪するはめになった。 翠のそばにいるたび、幾度となく浸ったそれが、本当のところ、心地よかったことは否定できない。 そうすることで私は、自分は人として正道を歩んでいると考え、正しい者であるという誇りに胸を張れている気がしていたのだ。 愚かにも。ただ、そうして錯覚ばかりを映していたこのころの私の目にも、翠がだれかを想っているらしいということには気付いていた気がする。 そうだ。 それは口にしてはならないものだと、その想いゆえに自分は死ぬのだと、翠自身嘯いていた。 目の前の自分に向かい――それは決して『私』に対してではなく――そう言うことで、自分自身に思い込ませていたのではないだろうか……。 ああ、そしてあの日。 担任であった教師――面影がさまざまというか、当時あまり関心を払っていなかったこともあり、ただ、女であったとしか覚えてないが――が、今回の翠の無断長期欠課は目に余るものがあると言って、私に翠の様子を見に行かせたのだ。保護者とは電話で話したようだが、知らないとか、自主性がどうのとかで、要領を得なかったらしい。 教室で比較的彼と仲の良い私に白羽の矢を立てたとき、そのことを思いだしたのか女教師はぶつぶつと不満を口にしていて、まだ腹を立てていたことから、私もなんとなくそのことを察することができていた。 そうして、私は
翠はそれからもたびたび欠席した。 まるで学校とは何かの合間に来る、暇つぶしをするための場所だとでも思っているような感じで、ひょいと現われては私たちの日常での歯車の噛み合いを狂わせる。 それが表面を華やかに見せる美のせいだけではないと気付いたのはいつのことか……。 翠はよく、突然思い立ったように私の席を顧みては、私に話しかけてきていた。 それがまた時と場合を見ず、窓際とはいえ最前列であるというのに一向に悪びれたふうでもない。 ところが私は元来小心な臆病者であるくせに妙なところで姑息で、いつも皆からはみ出してはいないかとびくびく気にするたちであったために、そんな、豪胆な翠のふてぶてしさを感心するどころか、それにより私まで叱責を受けるということが怖く、話など早く打ち切ってしまいたくてたまらなかった。 だから、もっぱら翠からの言葉を聞くだけで、適当に相槌を打つこともせずに私はただ黙して聞く以外何も返さないでいた。 それが翠の気に召したようだったのは間違いない。 そして話の内容はといえば、それは今言うことかと疑問に思うような、実にくだらないものから哲学的なものまでさまざまだった。 そしてこれは私の記憶する、まるで写真のように鮮明な翠の遠影のひとつとしてあるのだが、あるとき、同じように気まぐれに振り返った翠が、こんなことを切り出した。「法とは一体何のために存在しなければならないのだろうね? ああ、いや、きみの答えは分かっているよ。 人という見栄っ張りで自賛美好きな、それでいて無駄に年月を過ごしてきたと公言しているも同然の幼稚な詭弁ばかりを振りかざすようなやからが徒党を組み、集団で過ごすための規律、場の秩序を守り、安心を得るためだとでも言いたいんだろう? でも、それならなぜそれは個人の私生活まで束縛しようとするんだろうね。 たとえ僕やきみが何を考え、何をしようとも、それが集団――あるいはほかの個人の者になんら害意を与えなければ、それはそれで許されるのではないのかい? っと、これは表現がまずいかな。 でも、違う? なぜひとは、他の者にまで干渉し得る権利として、あるいは義務とお仕着せて、当然顔をしてずかずかと他人の中へ土足で踏み込むのか。それを当然と思い込めるのか。 滑稽にも」 翠はそこで言葉を止めると、頬杖をして自らの思いにふけった。 そし
翠は、あとで私にだけ、教えてくれた。 あるいは、吐露してくれた。 なぜ少女を拒絶したのか。 あんな、その場に無言のまま置き去りにするなどという、あまりにひどい拒絶を平然とすることができたのか。 翠は、私にのみ、言った。「もうたくさんだ、和明。 たしかにきみの言うとおり、彼女にとってあれは精一杯の強がりだったのかも知れない。 でもね、なぜそれに僕が付き合わないといけないのかい? 僕は、他人のために自分が左右されるなど、真っ平なのだよ。 僕は皆を気持ちよくさせるための象眼物などではないし、見知らぬだれかへの無私の奉仕者でもない。 好きだという言葉には、だれもが従順にならねばならないという決まりでもあるのか? もう、いいかげんにしてくれ」 そう言って、私までも置き去りにした。 まっすぐ、ただの1度も振り返らずに去って行き――そしてその日より翠は姿を消して、再び現われたのは、それからもう4日もたった日のことだった。 今さら、だれも校門前でのことをぶり返そうとはしない。 翠もまた、私が切り出そうとしているのを敏感に感じ取れば、私を徹底的に拒絶し、周囲から排除しようとした――そして彼の取り巻きの者たちもそれにならって、私が近づくことを煙たがるようになった――ため、私は、あのことについて口にすることをあきらめてしまったのだった。 いいかげんにしてくれ。 翠はそう言った。 では翠にもまた、似た経験というものが合ったのだろうか? あるいは、あの少女のように申し込まれ、付き合ったことにより、苦い破滅が翠の過去にはあるのか。 そしてまた別の見解により、あれは翠の見せた唯一の失態――失点だったのだと思える。 翠が私をそこまで信頼していたとは到底思えないからだ。 たしかに私もまた群衆というものに入れない、そこからはみ出した者ではあったけれど、それは完全に翠のものとは違う。比べることすらおこがましいほどの、劣等な理由からだったのだから。 が、のちに私は何度も思い知らされることになる。 確固たる形を持つ確かな親しさなど無分別な愚者にこそふさわしい、無様な馴れ合いなのだということを。 あのころ、翠は私だけを認めてくれていたのだ。 私たちは同じだとか、似たもの同士だとか、そんな傷のなめ合い、共依存などではない。 翠の行為・思考は到底理解を超え
私が彼とともにいたのは、ありあまるほどに存在する、単調さ、少しばかりの思考で容易に見通しのつく長さにおいては窒息さえ生み出しかねない私の生涯の中で、わずか数千分の一にも満たない日数でしかなかった。 それでいて彼は、だれひとりとして犯すことのできない禁足の位置というものは、たしかにだれの胸の中にも存在するのだということを私に気付かせ、そして私の中に空室となって眠っていたそれを探り出し、そこに入り込んだのだった。 それは、私の中ではとうに蜘蛛の巣が張り巡らされ、埃に薄汚れた、小さな片隅だった。 持ち主であるはずの私ですら慮ることの憚られる、辛うじて存在するだけだった小さな部屋。 そのさびついた扉を彼はいとも易々と開いてみせ、そして生涯唯一の個室として、幻影だけを忍ばせた。 とてもずるいことだと、のちに私は幾度も罵ることとなる。 年月とともに薄れ、褪せて、散っていくだけの幻。 だのになぜ、私はすがるのか。 なぜ、必死になって彼を思い起こそうとするのか。 3週間。 彼とはひと月にも満たない数日間しかともに過ごすことはなかったというのに。 説明のつかない不思議な異常さに、わがことながら惑わずにいられない。 そんな私ではあったが、しかし彼と特別親しかったというわけでもなかった。 親同士が友人であったとかいうわけでもなく、それまでになんらかの場で彼の姿を目端に入れていたというわけでもない。 私が彼を見たのはほかの者たちと同じく高校入学の日が初めてであり、その日を入れて数えての日数が3週間だったのだ。 そして同じクラス、続く席順だったというだけでは説明不足だろうか。 それでも、と言うのであれば、では、彼を述べればいずれの者であれ理解してもらえると思う。 彼は、名を玖珂 翠惟――といった。 家系図をたどればかつてその身に公家の血でも入っていたのかと思わせる、雅な高貴さを振り撒いている名なのだが、翠(私は、その呼びにくさから彼をそう呼ばせてもらっていた)自身、名にし負うと言うべきか、我々と同じ歳の男としてはとても端正な、それでいて洗練された品位をそこはかとなく身にまとっていた。 常に平静を崩さない面。容姿端麗にして眉目秀麗である。 が、そうして口にした途端その言葉の持つ要素すべてが色あせ、そし